労働は尊いものだと教えられてきました。働くことは素晴らしい。職業に貴賤はなく、労働そのものに価値があると。汗水流して働いて得たお金は尊いものでむげに扱ってはならないと、教えられてきました。
今、無職になろうとしている私は、その労働から離れようとしています。また働くかも知れませんが、今のように人生のすべての時間を労働に費やすことはないと思います。働かない私は尊くなく、卑しい存在なのでしょうか。無職は蔑まれる生き方なのでしょうか。
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労働とは何でしょう。労働契約法では労働者とは「使用者に使用されて労働し、賃金を支払われる者」とされています。だから労働とは賃金を得るために使用者に使用されることですね。お金をもらうために何かを命じられること。これって尊いんでしょうか。例えばどこかの金持ちが気まぐれに、正当な賃金を支払って穴を掘って埋め戻すような作業を労働者に命じたとしたらどうでしょう。それで労働者は生活していけるし、何も問題はなさそうですが、それは尊いと言えるのでしょうか。労働者は汗を流して作業して、命令を忠実に遂行して、穴を掘る技術は年々向上して、そして何よりも穴を掘ることに達成感を得ているのかもしれません。でもそれは尊いのか。毎日がんばっているけど、尊いのか。
労働や働くことの尊さと言うのは、モノやサービスを売ったときに初めて成立するんじゃないかと思います。顧客に価値を提供したときに、はじめてその事業による社会貢献が行われたことになる。顧客への価値の提供と言うのは、平たく言うと人を幸せにしたと言うこと。人は誰も自分の幸せを追求しますが、労働や働くことが尊いのは、自分の幸せに加えて人を幸せにする活動を日々しているからだと思います。自分や家族だけ幸せになれば十分なのに、人も幸せにしようと毎日働いている。それは尊いです。どの仕事もお金をもらっている以上、何らかの価値を提供して、誰かを幸せにする一助となっているのでしょう。
世の中で働いていない人と言うのは、主には子供と老人です。彼らは自分の幸せだけを考えて生きています。老人は大人だから別の形で社会貢献しているかもしれませんが。自分の幸せだけを考えている人と言うのは、多分人として普通の状態なんじゃないでしょうか。働いていないからと言って責められることはないですよね。将来の労働力だから、もう充分働いたからと言うより、それが普通の状態だからと言う方が正しい。無職も同じじゃないかと思いますね。これは人として普通の状態だと。恥じるようなことは何もないんじゃないかと。何をしていますかと聞かれれば「生きています」と答えればいいんじゃないかなと。
労働や働くことの価値は人を幸せにすることだと思いますが、でもその労働で自分自身が苦しんでいる人が多い。人を幸せにするための仕事が自分を苦しめる。これは生き方として何か間違っていますね。フェアトレードと言う活動がありますが、国内でも適用した方がいいですね。
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お金があるからと言って毎日ぼーっと過ごしている人と、お金がないからと言って毎日汗水流して働いている人は、ある意味同じです。ただ生きている。自分の幸せのためだけに生きている普通の人です。労働とはお金をもらうための作業に過ぎず、労働そのものに「尊さ」などはないです。価値があるのは社会貢献、自分が幸せになるだけじゃく、人をも幸せにしようとするその意欲のところですね。